昔のゲームのほうが面白い理由と、今のゲームを作る開発者が考えるべきこと

新型コロナによる外出自粛で外に出られないこどもたちに、日本レトロゲーム協会がスーパーファミコン100台を無償提供した。

このことに対して好意的な声がある一方で、スポーツ報知の記事にある一文が物議を醸している。

今のゲームだと映像がきれいだから、想像力を使うことがない

この短い文章は色々な受け取り方ができるので、「本当に昔のゲームのほうが想像力を刺激されて良かったのか」とか、「ゲームをするときに想像力を使って映像を補完することを楽しんでいたわけではない」とか、いろんな意見が出てきて、今のゲームと昔のゲームはどちらが良いかという話に派生した。

この件に限らず、今のゲームと昔のゲームのどちらが良いか、面白いか、という議論は定期的に盛り上がる。良い機会なので、「昔のゲームは良かった」、「昔のゲームの方が面白かった」という感覚に対する自分の答えを書く。




なぜ『昔のゲームのほうが面白い』のか

昔と今の話になるとゲームを遊んだときの年齢や環境の話が出てくるが、子供と大人の間に知識や経験の多寡はあれど、今の時代の標準を知っていれば基本の五感は同じだし、思い出補正を加味すると話がぶれるので、ゲームの内容そのもので比較する。

また、デバイスとインフラに触れると話が広がりまくるので、今回は家庭用ゲームに絞って書く。

昔と今の家庭用ゲームを比べた場合の違いは二つ。

①グラフィック表現

②ジャンルの多寡

この二つが異なるとなぜ昔のゲームのほうが面白くなるかを順番に説明する。

①簡素なグラフィック表現は遊びの幅を広げやすい

昔と今のゲームで大きく異なるのはグラフィック表現だ。技術がどんどん進化するので、今は昔よりはるかにリッチな表現でゲームを作れるようになった。これを踏まえて、昔のゲームと今のゲームをもうすこし具体的に定義するとこうなる。

昔のゲーム:簡素な表現で作られたゲーム

今のゲーム:リッチな表現で作られたゲーム

上述の定義で『昔のゲームのほうが面白い』を置き換えると、『簡素な表現で作られたゲームのほうが面白い』となる。簡素な表現で作られたゲームが面白いのは当たり前で、理由はゲームに落とし込める動作が無限にあるからだ。

表現が簡素だと、動きや演出の制作コストが低いので様々な動詞を遊びに落とし込める。

話す、調べる、攻撃する、釣る、などの動詞を実装する場合、テキストや絵の切り替えで表現すればよいし、動作によっては絵を切り替えなくても許される。入力に対する動作の幅が広いし、動詞と対象の掛け算で大量に遊びを増やせるのでゲームの自由度が高い。プレイヤーのひらめきに応えられる機会も増える。

1987年発売の『さんまの名探偵』。 対象 × 動詞 × 持ち物 の掛け算でできることが多い

表現がリッチなゲームの強みは没入感だが、没入感を損ねないようにゲーム全体でクオリティを均一に保つことが求められるため、シンプルなインタラクトによる遊びを仕込みづらくなったり、記号化が難しくなって画面の表示物が増えるなどの弱みがある。

◆記号化についてピンとこない方はこちらをどうぞ

オブジェクトの記号化

部分的にクオリティが高いだけでは、落差でそれ以外がチープに見えてしまう。初代PSのファイナルファンタジーで、ムービーのあとにポリポリな3Dが表示されてがっかりするのを思い浮かべるとわかりやすいと思う。

動詞を追加しようにも、モーションやエフェクトの数がどんどん増えてコストも容量も圧迫するので、アクションは絞る必要がある。

表現をリッチにすると遊びの幅が狭まるわかりやすい例に、ポケモンの『ひでんわざ』がある。

『ひでんわざ』はポケモンの力で木を伐り、岩を押し、海を渡り、空を飛びながら新しい場所へ行くという、冒険の面白さを演出する上で欠かせない要素だった。

初代ポケモンは、ポッポだろうがピジョットだろうが鳥ポケモンはすべて同じ鳥アイコンだったので、どのポケモンでそらをとんでも見た目は変わらなかったが、翼を持つポケモンには大体そらをとぶを覚えさせられたので、フリーザーに乗って空を飛べたし、フリーザーに乗って空を飛ぶ自分を想像してわくわくすることができた。

この、想像してわくわくするということが、前置きで引用した『今のゲームだと映像がきれいだから、想像力を使うことがない』ということの本質である。『簡素な表現だとたくさんの動作をゲームに組み込むことができ、足りない部分は想像して楽しむことができた』という風に書かれていれば、変な誤解は生まれなかったと思う。

カービィのような見た目の汎用アイコンが海に浮かんでいる絵から、たくさんのこどもたちがアニメのOPのラプラスを想像していたのは間違いない。だから金銀バージョンからなみのりアイコンはラプラスになった。

初代以降のポケモンも、ひでんわざは共通の影を使って表現を簡略化しているが、わざを使った直後にカットインを入れることで特定のポケモンに乗っている感を演出して、好きなポケモンに乗っているという刷り込みをしていた。

これをリッチな表現で作ろうとすると、ひでんわざを覚えられるポケモンすべてにモーションを作るか、ひでんわざを覚えられるポケモンをとてつもなく絞る必要が出てくる。

ポケモンが完全に3DになったXYからピカブイまでは、ポケモンに乗るという遊びをリッチに表現することに挑戦していて、一部のポケモンにのみグラフィックが用意された。

グラフィックが用意されないポケモンは、それまでと同じく影で簡素に表示される。

ピカブイの場合はひでんわざの概念がなくなっている。

好きなポケモンで空を飛ぶことはできなくなったが、乗ることができるポケモンにはすべて専用のグラフィックが用意されているのでアニメの再現度が高い。

最新作のソードシールドでもひでんわざは廃止されている。

そらをとぶは『そらとぶタクシー』としてアーマーガアというポケモンに集約されており、ロード画面のアイコンで表現されるようになった。なみのりは水陸両用自転車に置き換えられて、シリーズで初めてポケモンに乗らない表現になっている。

ゲーム全体の表現をとてつもなくリッチにしたので、コストと容量との戦いが生じて、自分のポケモンに乗るというアクションそのものをばっさり切った形だ。

その代わり、3Dのクオリティが爆上がりしており、感情表現が豊かで、ゲームのなかを満たす空気をリアルに感じられる。ポケモンの種類がシリーズで一番多いのに、一体一体の感情表現が豊かでとても愛らしい。これを作るのは本当に大変だったと思う。

このように、簡素な表現だから実現できていた遊びの中には、リッチな表現では実現しづらくなって無くなるものがあるので、「昔のゲームは面白かった」という感覚が生まれるのは正しい。

だからといって、どちらが良い、悪いというわけではない。

簡素な表現だと遊びの幅が広げやすく、リッチな表現だと没入感を高めやすい、というように、表現によって実現できるゲーム体験が異なるだけである。

ポケモンシリーズに関してはブラック・ホワイトが遊びと表現の両立における一つの完成形だと思っている。リッチな2Dに部分的に3Dを加えて奥行ある世界を演出しつつ、従来のシリーズの遊びを残すことにも成功している。

②ジャンルが多いと面白く感じる

『昔のゲームのほうが面白かった』要因は時代にもある。

80~90年代は、今より開発コストが少なかったし、ゲームが流行り始めた時期だったので、様々な会社が新しいものを作ろうと奮起していた。だからゲームソフトがたくさん発売されたし、ジャンルもたくさんあった。

ファミコンのタイトルを色々プレイしてみるとよくわかるが、90年代までにだいたいの遊びはゲームに落とし込まれたと思う。

『オープンワールド』というと、グランドセフトオートあたりから始まった比較的新しいジャンルと認識している人も多いが、ゼルダの伝説、ドラゴンクエスト、たけしの挑戦状は間違いなくオープンワールドで、80年代から存在している。

たけしの挑戦状はGTAと比較されることが多い

今の時代では絶対に作らせてもらえなさそうな『超能力開発ソフト』という代物も存在する。これはゲーム内で開発するのではなく、リアルにプレイヤー自身の超能力が開花することを目指すゲームである。

このゲームをクリアできる人は超能力者なので、超能力開発ソフトなのは間違いない

紹介したものはほんの一部だが、90年代は本当にいろんなジャンルのゲームに溢れていた。しかし、この流れは90年代後半に登場した3D表現によって大きく変わる。

3Dのリッチな見た目はそれまでの表現に比べて圧倒的に訴求力が強かったし、3Dになることで新しい体験が演出できるようになった。だからプレイヤーは3Dのゲームを求めたし、業界全体も3Dでゲームを作る流れになった。

しかし、3Dでゲームを作るのは本当に開発コストがかかる。しかも、いろんな会社が大量にゲームを作るので、本当に面白いものしか売れなくなる。だから、ゲーム開発は博打のようなものとして認識されはじめ、ゲームを作る会社が減り、発売されるタイトルが最盛期に比べると少なくなっていった。

ゲームを作り続けられる体力を持った会社も、基本的にはヒットさせなければいけないから、どうしても今流行っているもの、売れているものをベースにゲームを作りがちになり、市場に出回るゲームジャンルは少なくなる。また、ゲームをベースに作られたゲームは、ほとんどの場合縮小再生産になる。大手メーカーが挑戦をやめて無難なゲームを作り続けることが日本のゲームの幅を狭めるので、自分としてはこれが一番厄介だと考えている。

昔のほうが挑戦的でゲームもゲームジャンルも多かったのだから、ファミコン以前の時代に、ゲーム以外の面白さをベースに作られたゲームをたくさん遊んだ人たちが「昔のほうが良かった」と感じるのは正しい。

ただ、今はゲームエンジンの改良でゲームが作りやすくなり、小規模開発が盛り上がっている。挑戦的なタイトルも多いし、SwitchやPS4でもインディゲームがどんどん遊べるようになっているので、もう今は昔と同じような状況になっていると思う。あとは、自分含めて開発者が頑張ればよい。

昔と今、どちらが良いのか

ポケモンのひでんわざの話を改めて思い出してみる。

ひでんわざが存在していたポケモンには、自分のポケモンで道を切り開く楽しみがあるが、リッチな表現で作られたポケモンには、アニメで夢見た世界を、感情表現豊かなポケモンとともに冒険できるロマンがある。

それぞれの表現に、それぞれの面白さがある。

結局、何に重きを置いてどんな表現で作るか、という選択の問題なので、昔と今のゲームのどちらが面白いかを議論することにはあまり意味がない。(リッチな表現のほうが訴求力があるというのは揺るがないが)

没入感を高めたいなら、軸となる遊びが最大限面白くなるように力を入れて表現を作りこむのが良いし、遊びに自由度を持たせたいなら、表現を簡素にしてシステムを作りこめばよい。

今と昔のゲームの間に新旧も良し悪しもなくて、ゲームを面白くするための表現手段が色々あるというだけだ。

ゲームの体験は、システム、ゲームフロー・シナリオ、アート、サウンドなどの相乗効果によって作られるものなので、要素のどれかが昔からあるものだったとしても、要素を組み合わせて出来上がる体験が新しいなら、そのゲームは新しい。

簡素な表現でも遊びが新しければ面白くなる最たる例は『Minecraft』。

あのゲームの自由度を実現するためには、あのグラフィックが最適だった。

世界をブロックで構成する仕組みと、ブロックを活かしたレゴ感は、モノづくりゲーとして絶妙にマッチしているし、とにかく何でも作れるという拡張性の高いゲームシステムが素晴らしい発明だった。

Undertale』は様相は完全にレトロゲームだが、テーマがよかった。システム、ストーリー、グラフィックの全てがテーマにかみ合って新しい体験をもたらし、メタスコアで92点という超ハイスコアをたたき出した。

十三騎兵防衛圏』は、ゲームシステムは昔からよくあるアドベンチャーとタワーディフェンスだが、この二つを同居させて、シナリオ、アート、サウンドで新しいガワを被せたことで、唯一無二の世界観が出来上がり、高い評価を受けている。

アドベンチャーの仕組み自体は、先に画像を載せたさんまの名探偵でもやっているように、情報を集めて対象に使うだけだが、クラウドシンクという名称や演出をつけることで別の遊びに見えるのである。

Detroit:Become Human』のシナリオ分岐はかまいたちの夜やSIRENなどで挑戦されてきたものと同じだが、分岐が凄まじく多いため、クリア後に人によって全く違うストーリーを語る点は他のゲームでは体験できないものだった。

何より没入感の高さは他のタイトルの追随を許さない。登場人物の感情を表情や仕草で丁寧に表現しているので没入感が非常に高い。モーションとカメラをセットで制御することでコマンド入力に映画的なリアクションを返せるようになったことは革命的で、これは3Dでなければ到底実現できない表現である。

キャラクターの表情が豊かなので、感情がダイレクトに伝わってくるし、それが理由で一つの選択肢を選ぶときにプレイヤーにさまざまな葛藤が生まれる。

このように、システム、表現は単体で見れば昔からあるものだったとしても、昔からあるもの同士を組み合わせたり、どれか一つが発明だったりすると、ゲーム体験は別物になる。

だから、昔からあるものと新しいもののどちらが良いかを議論することに意味はない。

昔と今のゲームの差は表現手段の多寡でしかないし、昔のゲームも今のゲームも、面白いものは面白い。

今のゲームを作る開発者が考えること

技術や時代が進んでも、人間の五感は早々変わらない。飽きや慣れはあるが、ベースの感覚は同じ。だから、仕様や表現に新旧や優劣をつけることに意味はない。

「最近は3Dが主流だから」、「最近のアクションはカメラが動かせて当然だから」といった先入観や同調で、他の手段を最初から切り捨てることがゲームの幅を狭める。今のほうが表現の選択肢が増えているのだから、新旧に捉われず、どの表現が実現したい遊びにマッチするかを検討することが大事だ。

実現したい遊びや世界を、

どんな座組みで、

どのデバイスに向けて、

どんな表現で、

どのように時代に合わせて作るか。

作り手は選択できる手段のなかから、どれが最もコンセプトに適しており、ベストな面白さを実現できるかを柔軟に考え続けるのみである。

余談だが、withnewsの日本レトロゲーム協会へのインタビュー記事にはこのようなことが書いてある。

昔の粗いドット絵のゲームは、そこから世界を想像する楽しみがあり、想像力を豊かにしてくれる

記事を読むとわかるが、インタビューに答えた人は今のゲームを悪く言いたかったわけではない。昔のゲームや、ドット表現の良さを伝えたかっただけだ。

ゲームが表現によって別の体験を提供できるように、人の考えや思いも文章という表現によってまったく別の受け取り方をされることがある。

今回の件から派生したさまざまな意見をさらっと目にして不快な気持ちになってしまった人たちには是非、withnewsのインタビュー記事を読んでもらいたい。

◆バイオハザードの昔と今を引用して仕様の考え方をまとめた記事

はじめて仕様書を書くことになったとき、多くの人は仕様書の書き方を調べる。でも、本当に知りたいのは書き方ではなく、何を書けばよいかではないだろうか。仕様には答えがないので、ネットで調べても出てこない。この記事には、仕様書を書く前に理解しておきたい『仕様の正体』と『仕様の考え方』をまとめる。

◆ドラゴンクエストのゲームデザインが今でも有効なことをまとめた記事

初代ドラゴンクエストがいまだに最高傑作と謳われる理由は、ゲーム全体を通して緻密に計算されつくしたゲームデザインにあった。現在でも通用する"閃きのゲームデザイン"を詳細に解説します。







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